イスラエルの歴史は古い。紀元前2000年〜紀元前538年の聖書時代。
ユダヤ民族の歴史は聖書なくして語ることは出来ない。その父祖は聖書に記された「ノアの箱舟」のノアから
10代目にあたるアブラハムだといわれている。神からカナンの地(現在のパレスチナ地方)を与えられた。
ところが、その息子ヤコブが晩年を迎える頃、カナンは深刻な飢饉にみまわれる。ヤコブは一族を率い、息
子ヨセフを頼ってエジプトへ移住していった。そこでユダヤ民族を待っていたものは、過酷な奴隷生活であっ
た。重労働に苦しみ、救いを神に祈り続けた。紀元前1280年頃モーゼが現れたのである。彼はユダヤ民
族を統率してエジプトから脱出しシナイ半島で神から「十戒」を授けられた。モーゼの指揮によってカナンの
地に戻ったユダヤ民族は200年ほど安定した生活を営んだ。
紀元前1020年には君主制が敷かれ最初の王サウルが即位。2代目がダビデ。その時代に首都がエルサ
レムと定められ、ダビデの子ソロモンはエルサレムに神殿を建設した。
繁栄を謳歌したユダヤ国家もソロモン王の死をきっかけにかげりを始める。国は南北に別れそれぞれアッ
シリアとバビロニアに侵略されてしまう。このとき多くのユダヤ人は四散してゆく。紀元前538年バビロニア
がペルシャに征服されると、ユダヤ民族は故国へ帰還を許された。しかしその後もギリシャやローマに支配
される。
ヤッフォ

エルサレムの玄関口だった古都。
ヤッフォが町として生まれたのは紀元前1800年〜1600年頃。
砦であり港としての長い歴史の始まりであった。
歴史上の征服者の多くもこの町を目指した。十字軍のリチャード
獅子王、ナポレオン、トルコのスルタンたち。
この町の栄華はオスマン・トルコの崩壊とともに終わる。
ヤッフォ

聖地巡礼の旅が始まる13世紀には、エルサレムへの地中海側
の玄関口となる。
これには理由があった。イエスの弟子ペテロが「皮なめしシモンの
家」に泊まっている時、カイザリヤ在住ローマ軍の百人隊長コルネ
リウスの使いがやってきて、イエスの教えを請うた。当時ユダヤ人
が外国人と交際することは禁じられていたが、ペテロは教えを説い
たという。これがきっかけで異邦人伝道が始まったという。
キリスト教徒にとっては聖地と同じくらい価値がある場所。
カイザリヤ

紀元前2世紀に「ストラトンの塔」というフェニキア人の港町があっ
た。地中海の玄関口として栄えていたが、ヘロデ王はここにアテネ
に匹敵するような大きな港町を築こうと、大規模な町作りを始める。
大いに栄え、ローマから使わされたユダヤ総督は代々この町に居
を構えるようになった。
また地中海の玄関口として、軍事的に重要な地でもあった。
導水橋

カイザリヤの海岸には人が楽にくぐれる大きさの見事なアーチのつ
いた壁が続いている。これはローマ時代の建築物を代表する導水
橋。ヘロデ王が水の少ないカイザリヤに水を引く施設として建設し
た。2本のうち1本は農業用水の灌漑用に。
もう1本はカルメル山から9KMにわたって引かれ飲料用に用いら
れていたようだ。
アッコ

紀元前2000年には港湾都市として機能していたという記録がある
から4000年の歴史があるといわれています。
十字軍遠征時(12〜13世紀)には、このエリアの拠点であった。
ベネチアが地中海を制していた時も、アッコには真っ先に乗り込ん
でいる。18世紀にはオスマン・トルコもここを占領した。
写真はハーヌル・ウムダーン。キャラバン隊の宿泊所。1階が馬の
泊まる場所であった。昔の旅人はすべて貿易商であり、商人であっ
た。彼らは地中海を渡ってアッコに着き、そしてここから遠くアジアま
でも旅を続けて行った。
アッコ

十字軍の町。地下で発見された十字軍時代の部屋「騎士のホール」

地下に埋もれていて、近年まで発見できなかった。当時はもちろん
地下ではなかった。お城のような要塞全体が時代とともに上へ上へ
と積み重ねていった結果、地下へ追いやられていったのだろう。
今も発掘が続いていた。

ベト・シェアン

大変古い歴史があり、紀元前5000年頃のものと考えられている。
ベト・シェアン国立公園の中にあるローマ時代の円形劇場や18層に
もおよぶさまざまな時代の遺跡、特徴的な形のテル(人工的な丘)
は見どころ。テルからは何層にもわたって異なった時代の遺跡が
発掘された。エジプト時代の神殿跡、サウル王時代の陶器類、ギリ
シャ、ローマ時代の遺跡、十字軍時代の要塞の跡、そして最上層か
らアラブの征服以降オスマン朝までの時代の道具類が出土している。
ベト・シェアン

ローマ時代の円形劇場の図。
7千席の座席がほぼ完全な形で残っている。
バニヤス国立公園

ヘレニズム時代(紀元前332年〜37年)、ギリシャの牧畜の神、パン
を祭った神殿があった。崖のところにある洞窟には、はっきりとギリ
シャ文字のレリーフが残っている。
上の神殿跡の説明図。
ナザレの街並み

イエスは母マリアとともに30年間この町で暮らしたという。
マリアにまつわる教会がいたるところに建てられている。
ナザレは世界中のキリスト教徒を惹きつける、巡礼の町となった。
受胎告知教会

ナザレの町にひときわ高く見える受胎告知教会の屋根。
聖母マリアがイエスの誕生を大天使ガブリエルに告げられた。
マリアが告知を受けたという洞窟の上に教会が建てられている。
三角形の屋根はアべ・マリアの「A」からデザインされたそうです。
マリアの絵

受胎告知教会の中には世界中からマリアの絵が送られてきて
壁面を飾っていました。
日本から送られたマリアは着物を着ていました。
カペナウム

ガリラヤ湖の北端に、イエス・キリストが第二の故郷として宣教活動
をしたところ。
教会になっているが、その前には紀元1世紀頃の村の跡がある。
シナゴーグ跡

イエスはカペナウムのシナゴーグを拠点として宣教活動をしたという。
シナゴーグは今も柱や壁がそのまま残っていて当時のおもかげを伝
えている。
イエスはこの地で数々の病人をいやした。彼の奇跡はもっぱら貧しい
者、弱いものに向けられた。飢えていれば安息日でも麦穂を摘むし、
人をいやすのに安息日だからといって断ることもしなかった。
このようなイエスの行動は、安息日などの戒律を厳格に守るユダヤ教
のなかで、民衆に驚きと歓喜で迎えられた。一方で、妬みを生み、民衆
を扇動する者として、十字架への伏線となっていった。
結局カペナウムの人々も、最後にはイエスを見放す。
パンの奇跡教会

タブハ村にある「パンの奇跡教会」。聖書の記述にあるイエスの奇跡
に合わせて建てられた教会。
紀元350年にはこの教会の元になるものが建てられていたというか
ら歴史的な教会である。
モザイクの床

イエスが5個のパンと2匹の魚で5000人以上の村人を救ったという
言い伝えをもとに教会が建てられた。
祭壇前にはビザンチン時代に作られたモザイクの床にパンと魚が見
事に描かれている。
オリーブ油を圧搾する石臼

オリーブはイエスの頃から聖油として用いられていた。
マサダの砦

死海のほとり、一面赤ちゃけた丘陵の間に突如として大きな岩山が現
れる。高い山のてっぺんをスパッと切ったような、まさに自然の要塞。
ここに最初に住居が作られたのは紀元前百年ごろであった。
その後ヘロデの時代に大改造が行われた。彼は冬の宮殿として、ここ
に居住地を作ろうと考え、要塞を思わせる地形を選んだ。プールやサウ
ナを備え、食料の貯蔵庫から住空間まで完璧に備えていた。
兵舎や作業所も用意されていた。土木技術をフルに活かして少ない水
を溜める工夫も完璧であった。
マサダの砦

このマサダがイスラエルの人にとって忘れられない場所となったのは、
この後に起こる歴史的戦いである。
紀元70年、ローマ帝国はエルサレムに侵攻、4ヶ月で首都を陥落させ
る。ユダヤ人の放浪が始まった瞬間であった。だが圧倒的なローマ軍
に最後まで戦ったユダヤ教徒がいた。熱心党と呼ばれる人たちである。
彼らは最後の抵抗の場所としてマサダを選び立て篭もる。その数967
人。対するローマ軍は3万人を越す大軍。戦いは3年にわたり続く。
ローマ軍は別の作戦を開始。別の道を作りついに砦の中になだれ込ん
でくる。この時ユダヤの人たちは負けを覚悟し、全員で死を選ぶ。
彼らはイスラエルの英雄となり、これが国作りの精神的バックボーンと
なった。