稙田の夜明け

雄城の台にムラがあった

雄城の台の地層から23000年前の石刃が出ている。他にも各種石器や、
縄文・弥生時代の土器が出ている。
弥生前期には100戸ほどの集落がすでにあったようだ。台地の下には七瀬川沿いの
稙田平野が広がり、稲作には絶好の場所だった。狩りや木の実の採集生活文化から農耕生活文化
へと変わっていった。雄城の台地と川の間から水耕跡が出た。(現トキハ稙田店建設地層から)
弥生中期から後期にかけての水田跡と水路で自然の流路を利用している。また流れの別れ目に柱穴があり、
水門を設けていたことがわかっている。
小さな壺型土器も出土し、水に対するお祭りもしていたことをうかがわせている。

また古代(奈良時代)の条里とほぼ一致した形で水田跡も見つかった。水田は木のくいと横板で補強
された水路と畦で約100m四方(一町)に区画されていたとみられている。
土木工事の水路跡を良好に残した条里跡は県内でも珍しいそうだ。自然流路を利用した水路を設けた弥生
時代の水田から整然と区画された古代の水田跡までをたどれる貴重な遺跡だそうです。

稙田(わさだ)という由来も早稲(わせ)が出来る田→わせた→わさだ(稙田)になったのでは
ないだろうか? 稲が出来る広い土地のこと。
弥生から古代、更には現代にかけ延々と水田耕作がなされて来たのである。


  


雄城の台 手前はトキハ稙田店