稙田の曙光

大分君の出現

● 「古事記」によると大分君(おおいたのきみ)は神武天皇の御子、神八井耳命(かむやいみみの
みこと)の第二子で火君・阿蘇君・筑紫連三潴と兄弟であるという。
「先代旧事本紀」の「国造本紀」に火国造・阿蘇国造・大分国造とあるので大分君は大分地方の国造
であった事がわかる。
古代氏姓制度研究の大家である太田亮氏は「豊日誌」に大分社と呼ばれるお宮が二社あり、一社は
稙田にあって豊門別命(とよとわけのみこと)をまつり、他は津守にあって大分君稚君(おおいたのきみ
わかきみ)をまつっているといわれ、この大分社は大分国造 大分君の氏神で豊門別命も稚君もみな
その歴代の人であろうと述べている。


●大分君は大分川、七瀬川等 川と水路を活用して群(ムラ)、評(コオリ)を確立し発展する。
呪術をよくし、一族の酋長誕生(カリスマ性の重要・・・おそらくは天気を予想したり、また目に見えない
神と話が出来る)と世襲制で強大化していく。


●大分君勢力も大和王朝の筑紫勢力の吸収で傘下に入る。
大化2年の公地公民化で大分君族の所領も荘園(天皇家の土地)となる。
大分君は守護役として稙田荘園の管理をする。(1200〜1000年前)


●壬申の乱で大分君世に出る
天智天皇の皇位継承をめぐる大海人皇子(弟)と大友皇子(息子)の戦いで大海人皇子は吉野へ身を
隠す。その時従者はたった29人だった。
舎人、大分君 恵尺(えさか)の調略で吉野〜伊勢〜愛知へいく途中5000人の軍隊となり、琵琶湖
瀬田の大橋での大分君 稚臣(わかみ)の大奮戦により、大海人皇子方が勝ち天武天皇が誕生した。
       大分君 恵尺は従三位
       大分君 稚臣は従五位をいただく。
古宮古墳(にじが丘)(7世紀)は恵尺か稚臣のどちらかの墓であろうといわれている。


●御陵古墳(木の上)
5世紀中期の前方後円墳。全長75mに達する大古墳でこの期の古墳では県下最大であった。
被葬者は大分地方を統治していた大分君宗家の墳墓とされている。
惜しいことに今は宅地となって消失している。

●平安時代中央政権の地方普及化の中で大分君一族の勢力消滅していく。