稙田氏の出現 |
●奈良の大神神社(おおみわじんじゃ)の神職、大神氏(おおがし)が宇佐神社の神職になるはず だったが宇佐氏・辛島氏との勢力争いに負けて大野の緒方に逃れる。 大神惟基、緒方姓を名のる。緒方氏の豊後計略。 その子 高知保・・・・・由布院 惟季・・・・・・・阿南 季定・・・・・・・稙田 基平・・・・・・・大野 惟盛・・・・・・・臼杵 をそれぞれ守らせ強固にして行く。(豊後武士団) ●季定、稙田姓を名のる。 ●稙田氏による守護実権の移転。大分君一族はは稙田氏が治めることになる。 稙田郷郷司職になる。 3代目までは野津原に住む。国衙が古国府にあったのでおそれたのでは ないか? また野津原はよいお米がとれるので基幹農業にするため? 2代目定綱時代に荘園成立、のち武士化し豊後緒方一族、豊後武士団の一翼となる。 阿蘇内の館を本拠とし、愛宕に砦を造る。のち城に改築し愛宕城とする。 4代有綱から稙田を強固にして居城を稙田に造る。 |
●保元の乱(1156年) 崇徳上皇対後白河天皇(兄弟)の確執。 崇徳上皇方 ・・・・・・藤原頼長、源為義、源為朝 後白河天皇方・・・・・・源義朝、平清盛 国家権力を利用して周到に準備を整えた後白河天皇方ははるかに優勢であった。天皇方の 源義朝・平清盛らが夜討ちをかけ、崇徳上皇方の源為朝(義朝の弟)らの奮戦も空しく、上皇方は 潰え、保原の乱は後白河天皇の勝利に終わった。 刑罰は厳しく崇徳上皇は讃岐に配流。源為義は息子源義朝から殺される。源為朝は久住に流される。 のち稙田は藤原頼長の荘園から後院領荘園となる。後院領とは天皇譲位後(上皇)のご領。 |
●平治の乱と稙田 平治元年(1159年)清盛が後白河法皇に近い藤原通憲と結んで昇進したので、競争者たる 源義朝は通憲と対立していた藤原信頼と結び、清盛が熊野詣の留守中に挙兵、後白河法皇を幽閉 し、通憲を殺した。清盛は帰京して源義朝を破り、信頼は斬殺、源義朝は東国へ逃走中殺された。 源氏は勢力を失い、平氏の全盛期を迎える。 緒方惟基、稙田季定は平清盛に与力し、平家家来となる。 のち緒方惟栄は反平氏、親源氏になる。 稙田有綱(稙田氏4代目)は緒方惟栄に従って壇ノ浦の戦い(1184年)で源氏に与力し平家を討つ。 ●緒方惟栄の宇佐神宮焼き討ち(1184年) 緒方荘(荘官、豊後武士団棟りょう、 緒方三郎惟栄。)は宇佐神宮の所領荘園だった。 年貢の納入をめぐり紛争。 源氏派ー惟栄、平家派ー宇佐神宮との抗争。 大宰府平家勢力の追放と九州における反平家の中心勢力。 ●惟栄と義経 頼朝対義経 後白河法皇は義経をそばにおいておこうとして、頼朝に内諾なく「左衛門少尉」の位を やった。そのため頼朝の怒りをかった。 後白河法皇は惟栄に義経を助けるよう命令した。惟栄は摂津の国、大物ヶ浦で迎えようとするが、 台風のため失敗する。結局義経は奥州平泉の藤原泰衡を頼ったが頼朝の圧力に負けた藤原泰衡に 殺される。頼朝より惟栄は沼田に流される。またこちらに帰されたが再度盛岡に流される。 惟栄のあと豊後武士団の棟りょうは大野泰基となる。 |