大友氏出現 ●後鳥羽天皇の頃、源頼朝が征夷大将軍となり、鎌倉に幕府を開いた。(1192年) 九州を治めさせるため大友能直(よしなお)を豊後に下向させる。(1192年)守護大名を命ぜられる。 頼朝は豊後を直轄領にする。しかし、初代能直は入国せず、弟古庄四郎重直(しげよし)が代官入国する。 安東常輝らがこれに従う。大野荘土師に来る。 |
稙田争乱 ●神角寺合戦と稙田 大友氏の入封(鎌倉武士団)と緒方一族(豊後武士団)の攻防 豊後方・・・・・大野泰基(神角寺)、阿南惟家(高崎山城)、阿南家親(鶴ヶ城) 鎌倉方・・・・・古庄重直、安東常輝、稙田有綱 豊後武士団は大友氏(鎌倉武士団)が豊後に来るのを嫌い、来させないようにするため神角寺で戦う。 緒方一族の結束の乱れで、稙田氏は大野泰基に味方しなかった。豊後武士団は敗れ鎌倉武士団に代わる。 稙田家は重要加判衆(大事な書類に判をつく人)として大友家に重用される。 |
●大友氏3代頼泰、豊後入国 大友氏初代、2代と豊後に来ていなかったが3代目頼泰が初めて豊後に来る。 中国 元の来襲事件(元寇)にさいして筑前国の武藤資経(すけつね)とともに九州の武士に対する軍事指揮 権を幕府から与えられた。弘安の役(1281年) 頼泰も北九州多々良浜に戦う。稙田荘各郷からも徴兵する。 この後豊後に土着して勢力を築く。 元軍は2度も攻めて来たが、九州の御家人の奮闘と台風(【神風】)によって失敗。更に3度目の遠征を企てた が実現しなかった。 これにより戦費・警備費による鎌倉幕府の財政の破綻・御家人の窮乏は鎌倉幕府の衰亡の原因となった。 足利尊氏が抬頭してくる。 大友頼泰の墓 菩提寺の常楽寺(大分市秋岡) |
●浅草神社(口戸) 大友氏が豊後へ下向するときに、鎌倉鶴ヶ岡八幡宮を勧請してお祀りしたのが浅草神社。 大友氏の守護神(氏神)とする。神殿・拝殿・舞殿・回廊・参道等を造営。 従四位式部大輔 加茂直秀大宮司を迎え、神田参拾壱町の寄進を得て村人は斉しく産土神として尊崇した。 8代氏時の時 南北朝時代は菊池武光軍の乱入で社殿を焼かれ、また22代吉統の時 薩摩の島津義久軍 から攻められ神社が焼かれた。 浅草神社鳥居 浅草神社 |
●南北朝期の稙田 懐良親王(かねながしんのう、後醍醐天皇の皇子) 対 足利尊氏加担稙田氏軍 稙田も南北朝方に真っ二つに別れ戦う。 建武3年後醍醐天皇は吉野に本営を構えた。・・・・・・・・南朝 足利尊氏は湊川で楠正成軍を破り、光明天皇を擁し京都を拠点とし室町幕府を開く。・・・・・・・・北朝 以後60年にわたる内乱、激動の時代の始まりであった。 *大友氏6代 大友貞宗は北朝方に見方するが、長子 貞順は南朝方につく。(元来稙田荘は 皇室院領の荘園。天皇を攻めるのは筋がとおらないと貞宗にそむく。) *稙田氏は主 大友貞宗に従い足利氏に組する。 *玖珠 高勝寺城の戦い・・・・・九州南朝方の拠点 懐良親王、菊池氏、大友貞順、入田士寂 敷戸普練、日田氏、清原氏、魚返氏等。 一方 北朝方は大友貞宗、氏泰、一色頼行、稙田能綱、寂円、戸次近太夫、頼時、志賀頼房、 氏房等、南朝方を攻めるが苦戦する。一進一退の攻防。南朝方籠城の構え。 *宮ヶ瀬渡しの合戦 *田尻川、霊山寺合戦 ・・・・・霊山衆を中心に南朝派強固(敷戸孫次郎、賀来弁阿闍梨等) *府内大友館の戦い *高崎山城合戦 大友軍は菊池軍を鳥屋城(志賀氏房)と高崎山城(大友氏時)に引きつけておいて動けないよう にした。菊池軍も鳥屋城を囲み10日攻めても動かない。しびれをきらし、囲みを解いて高崎山城 (大友方の拠点)を攻める。氏時も城を出ず、結局長期化して南朝方は戦意喪失、兵の不安・不満 が出て、援軍も来ず撤退する。帰路またしても八丁が辻で志賀氏から待ち伏せされ痛めつけられる。 大友方(北朝)の勝利に終わる。 |
●塚野御所の森の戦い 1347年 征西将軍懐良親王塚野へ来る。??? 湊川→佐伯→臼杵→三重→百木→宇曾山南麓→大藪越し→塚野長泉寺(龍梅阿闍梨庵)→久住→菊池へ。 稙田荘、稙田能綱(大友本家は北朝方)は北朝方ゆえ御所の森に懐良親王を襲う。 随行14名、侍従 甲斐信濃守信連、宮の身代わりとなり9名の従者と共に奮迅の戦をし全員討死。 懐良親王は無事肥後菊池に落ちる。肥後で栄えていた菊池氏は南朝方についていた。菊池氏をたよりにして 南朝勢力を盛り返し、九州の基盤を固めるため懐良親王が来た。 史実としては懐良親王は薩摩の谷山に薩摩の島津貞久を破り、肥後の宇土に上陸、1348年に菊池入りしている。 しかし、初めから親王の影武者として甲斐信濃守信連が上記のコースで御所の森へ来たことはあり得るのではない か。その時村人たちは塚をたてて祭った。 長泉寺 龍梅阿闍梨・・・・・南朝方への志きわめて厚く、菊池に抜けるのに格好の場所だった。 「塚野」という地名・・・・・・塚を築いて忠義の志を祭った故の地名。 御所の森祭り・・・・・今も討死の日と言われる4月23日に忠義の志を敬慕して村人たちが祭りをする。 菊池氏7度に及ぶ豊後攻めの怨念。 御所の森の塚 |
●大友末期と稙田 *妙見岳城の戦い(宇佐) 1532年 @ 大友義鑑、大内勢との戦い・・・稙田氏当主 稙田惟満壮烈死(少弐氏与力の合戦) 嫡子 稙田新五郎、惟実 筑後国受領(4町歩) A稙田惟忠 (第20代) 大友宗麟に従い転戦武勲 (他国分割受領) B稙田惟久 (第21代) 小丸川合戦での田原紹忍の非をあげ、稙田荘内領没収される。 ・・・・・・・稙田氏、本貫地稙田荘を失う。 稙田荘の細分割・・・・・・・稙田荘は大友氏領になる。恩賞供給地となる。 雄城氏、田尻氏、奴留湯氏、高山氏、賀来氏、宗方氏、吉永氏、斉藤氏、摂津氏 原尻氏、田北氏、浦上氏、木上氏、寒田氏他 *第一次豊薩戦争 (天正6年、1578年) 通称「耳川の戦い」・・・大友宗麟、日向出兵 伊藤義祐(よしすけ)は島津義久から攻められ、大友氏に助けを求めてきた。 宗麟は延岡、務志賀に神の国を作るのがねらいで伊藤氏を助ける。土持親成、島津義久に従い宗麟に背く。 日向土持領強奪。キリスト教へ寄進する。「神の国 ムシカ」作りのため。 その後、府内家臣の反対を押し切って出撃する。日向高城(島津家久)を攻めるが落ちず。 小丸川合戦 島津義久軍は小丸川対岸に敷陣する。大友軍 田北鎮周、佐伯宗夫、斉藤鎮実、吉弘鎮信等が次々と 斬りこむが各隊バラバラで連携なく、有力諸将華々しく討死し、田原紹忍は動かず総くずれで逃げる。 稙田の第6代安東幸秀も後詰め軍で勇戦するが日向退去。 大友勢 戦死者総数2万余。宗像衆も6名討死。 *第二次豊薩戦争 (天正14年、 1586年) 「戸次中津留川原の戦い」 島津義久 豊後に侵攻してくる。大友宗麟は秀吉に援軍を依頼する。 秀吉は島津討伐に四国の十河氏、長曾加部氏、仙石氏を送ってくる。 戸次 鶴ヶ城攻防・・・・・島津軍から囲まれる。3日3晩攻められるが落ちず。 中津留川原の戦い・・・・・岡城の若武者 志賀親次、若冠18歳の佐伯惟定、稙田の宗方新五郎 長曾加部元親、信親父子、仙石秀久、十河存保等の大奮戦も虚しく、島津軍の 「釣野伏せの計」にはまり、大友、四国連合軍大敗。大友氏は再起不能の大敗北。 勢いに乗って島津軍は府内に侵入。焼き討ちする。稙田では霊山衆も奮戦するが霊山寺も浅草神社も 太田の繁美城、入倉の愛宕城も焼かれた。この戦で両軍の戦死者を判別できず、1ヶ所に埋めたのが親蓮寺原 に残っている千人塚といわれている。 宗麟は臼杵 丹生嶋城に篭り、吉統は安心院 龍王寺に逃げる。 天正15年 秀吉、小倉まで出兵。島津は薩摩に帰り、降伏する。秀吉は豊後一国を吉統に安堵する。 このあと宗麟は津久見の隠居所で病死。56歳。 |
●秀吉の朝鮮出兵 (1592年 文禄元年) 秀吉は15万8千の軍で朝鮮を攻める。大友吉統も6千の兵を率いて戦功を立てていたが、明の大軍の朝鮮援軍に あわてて逃げた失態を責められ、所領は没収され遂に周防山口の本国寺で出家させられた。常陸国三戸(佐竹藩) にも預けられる。慶長3年秀吉の死で吉統釈放される。 ●石垣原の戦い (1600年 慶長5年) 関ヶ原の戦いで吉統は増田長盛の西軍勧誘にのり、別府立石に本陣を構える。 黒田如水や加藤清正らの好意で東軍へ加担するよう再三誘われるが吉統聞かず。大友再興のためならと散らばって いた武将たちが駆けつけてきたが腹心の吉弘統幸、稙田の宗方鎮次討死。吉統再起を打ったが何れも敗れる。 吉統また預けの身に。上州沼田、南部岩手、常陸国、宍戸の配所で没した。慶長10年(1605年)7月19日、 48歳であった。宗麟全盛時は九州6ヶ国を領し覇を競っていた大友氏としては寂しい限りです。 以後豊後は府内領共で七藩に分割された。 ●大友家没落後の稙田 @稙田主要所は府内領となる。 新領主・・・福原直孝府内領主 12万石 A稙田荘宗方郷 名家 安東家7代当主 貞吉は太閤検地に竿役(責任者)をつとめる。 B領主 福原直孝の任官勧進を貞吉は辞退し、野に伏し帰農の民となる。安東氏にならい多くの武士が百姓に帰す。 C安東貞吉、宗方郷の庄屋となる。(実質名主) D慶長5年、関ヶ原後福原氏は西軍 石田三成に与力したため没落。 稙田荘の大半は臼杵領となり新領主は稲葉貞通領主(美濃から入国) 稙田地区は臼杵藩領(上、下宗方・田尻・寒田・千歳・塚野)、延岡藩領(市・横瀬)、島原藩領(田吹)、 肥後藩領(田原・鬼崎・野津原・今市・秋岡)、天領(寒田・小野鶴・野津原)、神社領(田島・八万田)と分割される。 E安東貞吉、新領主稲葉貞通より庄屋役を下命される。 F臼杵領、稙田郷検地(1600年) G貞吉一族、道を作り、溜池や水路造りと農地開発に尽くす。宗方は土地肥沃ながら大分川の水位が低く、水田を 養うには至らなかった。貞吉、稙田畑農の基盤を作る。 H安東家11代 安東嘉右門秀満、享保13年(1728年)享保井路完成させる。5世代 95年の大工事だった。 I釘宮利左衛門、嘉永元年(1848年)嘉永井路を完成させる。ここから米所とイ草の郷、稙田の田作りが花開く。 J大分川沿いには、臼杵藩、府内藩、岡藩、肥後藩など各藩の七島ィの集積所が設けられ、大阪商人が買いつけに 来た。この七島ィの交易において稙田の農民は大変潤い豊かな暮らしが出来たのです。 |